「マニラ日本人学校 臨時休校騒動記」

今年度のコロナによる緊急事態宣言・学校臨時休校を目の当たりにして、30年ほど前のマニラ駐在時代の騒動を思い出しました。その頃2度も危険な状況になり、学校も休校になったのです。

①1989年 クーデター

1989年12月1日クーデター勃発。11月30日が現地の祝日で日本人学校は連休中だったと思います。私たちがクーデターを知った頃には大使館をはじめ、主人の会社、主人の上司が住んでいるマンションはすべてwar zone(戦闘地域)内で立ち入り不可、連絡がとれない状態になっていました。

3日目には自宅近くの大通りを戦車が通り、日本人はどこかへ逃げた方がいいとの情報が入りました。

主人の同僚が現地の知人のツテで、車で1時間ほどの郊外のホテルを確保してくれたので、すぐに2家族で当時住んでいた首都マニラの中心部から脱出しました。

小3の長男は学用品を詰め込んだランドセルを背負い、5歳の長女もリュックに着替え、お気に入りのおもちゃを入れました。

「食料も必要かも…」と我が家は食パン1本、同僚の家族は炊飯器ごと、ご飯を持って「いざ逃げろ!」

でも車でたどり着いたホテルは平穏そのもの。

必死の形相でチェックインした私たちに、にこやかに「Welcome to Manila!」と歓迎の言葉(笑)。

ホテルのレストランも通常営業中で「えっ! 同じマニラだよね」と驚きました。

クーデターは1週間で終結、私たちはホテルで不思議な休暇を3日ほど過ごし帰宅。たしか、その数日後には学校も再開したと思います。

⓶1990年 湾岸戦争

「米軍がパトリオットミサイルで攻撃を~」というニュースをテレビで見ていたら数日後「明日から当分学校休み」と連絡ありました。

ここはイラクじゃないよ。フィリピンなのに、なぜ? なぜ?

実はフィリピン国内にイスラム教徒が多数おり、憎きアメリカの同盟国日本、日本人を攻撃するとの情報があり、警備が弱い日本人学校のスクールバスが狙われる恐れがあるというので休校になったのだそうです。

その後、約3週間、先生が学年毎の課題を各地区に届けてくれました。

そのうち、長期休校ではいけないとなったのか、理由は不明ですが、自家用車での送迎となりました。でも日本人学校は市街地から遠く、往復1時間半、送迎だけで1日3時間以上費やすことになります。そこで数家族でグループになり、運転手、母親、児童4〜6人で1台の車に乗り込み、協力し合って子どもたちを送迎する事となりました。

たしか2ヶ月ほどその生活を続けた頃、落ち着いたとみなされ、スクールバス運行復活。黄色に黒ラインのアメリカ映画に出てくるような古ーいバスでしたが、光り輝いて見えたものです。

以上、むかし昔、マニラ日本人学校でのおはなしでした。