木曽川町に移り住んで ~私にとってかけがえのない『ともの会』~

 私は今、歩んできた「道」を振り返りながら綴っている。

 昭和45年(1970年)28歳の時、一宮市から三重県への県外転勤希望を出し、その希望が適い4月から桑名市の学校に勤めることができた。

 学校の近くのアパートを借り、一年近く住んでいた。

ある時、職場の先輩から、岐阜県南濃町の建売住宅を紹介された。養老線の駅も近くにあり、桑名との距離も近い。周りの環境も良さそうで気に入ってしまい、購入した。この地で5年間生活していた。

 昭和51年(1976年)のある日、妻の両親から「木曽川町へ移っておいで。」と勧められ、私達の将来のことも考え、お話を受け入れた。それから、転居のための準備や手続きに走り回った記憶がある。木曽川町外割田に土地を提供していただき、我が家の建築も進めていくことができた。

 昭和53年(1978年)に家は完成し、10月に家族と私の両親も木曽川町へ呼び寄せ、一緒に生活を始めた。木曽川町での生活は大変嬉しいことではあったが、私の通勤は大変でした。凡そ50km離れた桑名。朝、6時半には家を出て、帰宅は夜の8時か9時過ぎの毎日。木曽川町には身寄りの方も少なく、私は家と学校の往復の生活が続いた。

昭和57年(1982年)6月のある日、地元のSさんがみえ、「厄年の会」の話から始まった。Sさんは、飾り気もない尾張弁丸出しで、気さくな人。大変好感が持て、私は喜んで仲間入りをお願いした。地元の同世代の仲間はすでに昭和56年2月に会合を持ち、厄年の会員の募集を始めていた。また、会の名前も「ともの会」と決まり、会費の事、会の代表や役割分担などが決められた。私が「会」の仲間入りをした7月25日、地元の料理屋で会合が開かれた。私に対しての歓迎会で、飲むことの好きな私にとっては、嬉しい限りの会でした。

 「ともの会」には、地元町内の方11名、そして私が入会して12名の会員で進められていった。

9月、会員12名全員が地元の喫茶店に集まり、天王神社での地祭りについて話し合われた。12月5日地祭り当日、御供物を準備し、祭壇にお供えした。御洗米から、お酒、スルメ、昆布、野菜、果物、しいたけと海の幸、山の幸、地の物。私はこうした地元の方の取り組みは初めてで、大変興味深かった。

 また、昭和58年(1983年)を迎えて1月16日、「会」は料理屋で新年会を開いた。会を開けばお酒はつきものであり、嬉しいことではあるが、私にとって色々新しい内容ばかりであった。そのひとつ、天王神社への玉垣(石に会員の一人一人の名前を彫ってもらう)を設置し、その除幕式の日程、厄払いの為の八剣神社参拝の日程、さらに国府宮神社参拝の日程、それらを決める大事な内容の話し合いでもあった。

 「ともの会」は、こうした厄年の行事を終え、昭和59年(1984年)4月からは外割田の同世代の集まりとして出発した。

12名の会員は、役員の呼びかけで喫茶店に集まり、時には料理屋で飲みながらの会合をし、親睦を深めていった。

会費は月1,000円を徴収し、積み立てしながら、年に1~2回の旅行も実施していった。このようにお金のかからない「会」、そして、毎年交代する役員が新たな企画で会員を楽しませてくださったので、「会」は長続きしているのかもしれません。

平成16年(2004年)には、会員は16名に増えましたが、発足した時から会員であった方が病にかかり、お亡くなりになったり、諸事情により「会」を脱退される方もいらっしゃったりして、会員は減りましたが、これはやむを得ないことです。 でも、今もなお「会」が続き、5名の会員が集い、この1月31日に地元の料理屋で食事会の計画をしている。私はおいしいお酒をいただくことはもちろん、何より地元の心強い仲間の元気な顔を見て、近況報告、そして懐かしい話ができるのを楽しみにしている。