今年度、黒田小学校が開校150周年を迎えました。
地域づくり協議会では、さまざまな年代の方々から、自分の小学校時代の思い出を寄稿していただきましたので、順次掲載していきます。同年代の方にとっては、きっと懐かしい思い出がよみがえってくるのではないでしょうか?
国鉄「踏切番」の思い出 【68歳の男性から】
黒田小学校の南東には、銀座通りとJR(昔は国鉄)東海道本線が交わる踏切があります。現在の学区制度では、この踏切を渡る黒田小学校の子はいません。
私の小学生の頃は、現在の木曽川東小学校の校区も黒田小学校の校区でした(のちに、黒田小学校から分離したのが木曽川東小学校です)ので、南黒田地区の子どもたちの多くは通学路としてこの踏切を利用していました。
現在の踏切は、通過する列車が近づくと自動で鳴る警報機、自動で開閉する遮断機が設置されているのが当たり前ですが、当時はそうではありませんでした。ここは、木曽川町の中でも交通量が多い踏切の一つであることは、今も昔も変わりません。
ではどのようにして、頻繁に通る列車と自動車や歩行者の安全を確保していたのでしょうか?この踏切には、常時、「踏切番」と言われる人がいたのです。そして、踏切の北東脇には、「踏切番小屋」が建っていました。
列車が近づくと、「踏切番小屋」に合図が来ます。今となっては記憶が曖昧ですが、確かブザーが鳴り、ランプが点るようになっていたと思います。「踏切番」の人は、その合図に従って大きなハンドルを操作し、手動で遮断機を下ろします。今のような道幅半分の長さの棒ではなく、線路と並行に張った道幅いっぱいの長さの吊り下げ式遮断機を上下するのです。踏切を渡る人や自動車の動きを見定めながら、遮断機を上下するのです。時には、線路に取り残されそうな人もいました。この「踏切番」の人の仕事は、子どもながらに「たいへんだなあ~」と思って見ていました。
私は、登下校時や学校に遊びに行く際は、必ずこの踏切を通らなくてはなりませんでした。しかし、この踏切で止められることは嫌いではありませんでした。この「踏切番」の人が、てきぱきとハンドル操作をしている姿が格好よく感じていたからです。学校の放課時間にも、運動場からその仕事ぶりをよく眺めていました。時々、蒸気機関車も煙を吐きながら通る時代でした。また、何十両もの長い貨物列車が通るたびに、何両連結しているのかみんなで声を上げて数えていました。
今でも、この踏切を渡る機会がよくあります。そのたびに、当時の「踏切番」の人が格好よく働く姿が懐かしく目に浮かびます。